歴史

歴史

現在の遺伝子の概念はメンデルによって定義される。
彼はエンドウ豆のいくつかの表現型に注目した交雑実験を行い、表現形質が分離することを発見する(→メンデルの法則)。
これを説明するために「遺伝粒子」を考え、これが現在の遺伝子の基となっている。
それまで形質は液体のように混じりあっていくと考えられていた。
細胞学者たちは減数分裂の様子を観察し、対になった染色体が一つずつになり、接合後に再び対を作るという染色体の挙動が、遺伝子のそれと同じであることを発見した(→染色体説)。
ショウジョウバエの突然変異を用いた遺伝学的によりそれが明らかにされた。
染色体はタンパク質と核酸からできていることが明らかにされたが、当時はタンパク質が遺伝子の正体であると考えられていた。
多数の種類があるタンパク質に比べ、核酸はあまりにも多様性が低いと考えられていたためである。
しかし、肺炎双球菌やファージを用いた実験で DNA が遺伝子の正体であることが実証され、そのすぐ後に DNA の構造が解明された。
DNA の二重らせん構造は遺伝子の性質と非常によく一致していた。

メンデルの法則発見から二重らせん構造発見までの歴史

メンデルの法則発見から二重らせん構造発見までの歴史

1865年 グレゴール・ヨハン・メンデル(現在のチェコ)がエンドウ豆の交雑実験の結果を発表。(→メンデルの法則)

1869年 ミーシャーが膿の細胞抽出液からDNAを発見する。

1900年 メンデルの投稿した論文がユーゴー・ド・フリース(オランダ)、カール・エリッヒ・コレンス(ドイツ)、エーリッヒ・フォン・チェルマック(オーストリア)によって再発見される。

1903年 ウォルター・S・サットンが遺伝子が染色体上にあることを提唱した。(→染色体説)

1909年 ヨハンセンはメンデルの指摘した因子を『gene(遺伝子)』と呼ぶことを提案した。

1910年 トーマス・ハント・モーガンがショウジョウバエの交雑実験を始める。

1921年 DNAのテトラヌクレオチドモデルを解説した論文が発表される(J. Biol Chem. 48:119〜125)。
当時、遺伝物質は多様性に富んだポリペプチド(タンパク質)であり、テトラヌクレオチドはその保護の役割を果たしていると考えられていた。

1922年 モルガンらのグループによってショウジョウバエの4つの染色体上に座している50個の遺伝子の相対位置が決定され、発表される。

1927年 ミューラーがX線は遺伝子に突然変異を導入することを指摘する。

1934年 カスパーソンがDNAは生体高分子であることを示し、テトラヌクレオチドモデルが誤りであることが証明される。

1935年 マックス・デルブリュックらは、遺伝子は物質的単位であることを提案した。

1941年 ビードルとテータムが『一遺伝子一酵素説』(1つの遺伝子は1つの酵素をコードしている)を発表。

1944年 フレデリック・グリフィスの肺炎双球菌の形質転換実験(グリフィスの実験)を元にした、オズワルド・アベリーらの『DNAが遺伝物質であることの実験的証明』を収めた論文が掲載される(J. Exp. Med. 79:137〜158)。
この論文はDNA=遺伝物質であることが確実な今、矛盾のないものだが、当時は評価を全く受けなかった(註:この見方は、アヴェリーが属していたロックフェラー研究所およびその周辺での、当初の反響を伝えているに過ぎない。
実際には、ジョシュア・レーダーバーグ、ジェームス・ワトソン、マックファーレン・バーネットなど現代遺伝学・分子生物学の元を築いた科学者たちが、「まだ初学者であった頃にアヴェリーらの論文を読んで大きな刺激を受けた」と述べている。
ちなみに、ワトソンは彼の著書(ワトソン&ベリー『DNA』)のなかでも、「アヴェリーの実験はハーシーとチェイスの実験が行われる前に既に評価されていた」と重ねて記している。
つまり、先を見据えていた科学者の間では正当に評価されていたということである。)

1950年 エルヴィン・シャルガフがペーパークロマトグラフィーを用いて塩基存在比に数学的関連があることを明らかにした(AとT、GとCはそれぞれ数が等しいことを示した)。

1952年 アルフレッド・ハーシーとマーサ・チェイスによる『ハーシーとチェイスの実験』結果が論文に掲載される(J. Gen. Physiol. 36:39〜56)。
本論文によってファージの遺伝物質がDNAであることが確実視されたと言われる。
同年、ロザリンド・フランクリンがDNAが二重らせん構造であることを証明するX線回折像写真を撮影する。

1953年 ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによってDNAのB型二重らせん構造のモデルが示され、DNAは生体内で『二重らせん構造』をとっていることを示す論文が発表される(Nature 171:737,738)。

二重らせん構造発見以降の歴史

1955年 セベロ・オチョアによってポリヌクレオチドホスホリラーゼが発見された(一見遺伝子とは無関係だが遺伝暗号の解明に寄与した重要な酵素である)
1956年 エリオット・ヴォルキンとラザルス・アストラチャンによってDNAからタンパク質への情報のメッセンジャーがRNAである証拠が提出された(mRNAが存在する可能性を示した、このことが確実になったのは5年後、ソル・シュピーゲルマンとベンジャミン・D・ホールらの実験による)
1958年 クリックによってセントラルドグマが提唱された(Symp. Soc. Exp. Biol. 12:138〜163)。

1959年 ロバート・ホリーによってtRNAala分子が単離された
1961年 マーシャル・ニーレンバーグとハインリッヒ・マテイによって大腸菌無細胞発現系を用いたポリウラシルからポリフェニルアラニンが合成される実験が行なわれた(遺伝暗号解明への初めての実験)
1964年 ニーレンバーグとフィリップ・レーダーによって遺伝暗号解明に大きな寄与をした『トリプレット結合能測定法』が開発された。
またヤノフスキーによって遺伝子がタンパク質をコードしていることが示された(遺伝子タンパク質間の共直線性が示された)
1966年 遺伝暗号の解読が完了した
1970年 ハワード・テミンとデビット・バルチモアがそれぞれある種のウイルスで逆転写反応を見出した(セントラルドグマ概念の訂正)
1977年 遺伝子が介在配列によっていくつかの単位に分断されていることが発見された(不連続遺伝子、イントロンの発見)
1979年 フレデリック・サンガーによってミトコンドリアではことなる遺伝暗号が使用されていることが発見された(非標準コドンの発見)
1981年 トーマス・チェックによって自己スプライシングイントロンが発見された(リボザイムの発見)

二重らせん構造発見以降の歴史

▲Page Top